教育現場の市場規範化について

何だか、世の中がおかしい気がする。

その違和感をうまく言葉にできなかったのだが、

最近になってようやく一つの捉え方にたどり着いた。

それは、「市場規範」という考え方である。

私なりに言葉にすると、

市場規範とは、金銭を媒介にした、

社会性を限りなく薄くした人間関係のことだと思っている。

目の前に人がいる。

しかし、その人の背後に、

紙幣のようなものが透けて見えている。

この人は、いくらの価値を持っているのか。

自分にとってどれだけ得か。

どれだけ役に立つか。

そういう尺度で人や物事を見てしまう状態。

それが市場規範なのではないかと思う。

もちろん、この考え方自体を否定するつもりはない。

社会はある程度、

そうした仕組みの上に成り立っている。

企業と顧客の関係は、まさにそうだろう。

顧客は利益をもたらす存在であり、

その関係性の中で、丁寧に接し、遜ることには合理性がある。

けれど、その関係性が

そのまま社会全体に広がってしまったとしたらどうだろうか。

本来は利害関係があるからこそ成立していた振る舞いが、

関係の有無に関わらず当たり前になる。

誰に対しても、

同じように丁寧に、

同じように遜る。

それは一見、良いことのように見える。

しかしそこには、

どこか違和感が残る。

私がその違和感を強く感じるのは、

教育現場での電話対応である。

外部から電話がかかってきたとき、

教員は同僚の名前を呼び捨てにしながら、

自分を強く謙る話し方をする。

普段は敬意を持って接している相手を、

外部に対しては「下げて」表現する。

それはマナーだと言われれば、そうなのかもしれない。

しかしそこには、

目の前の人との関係ではなく、

「どう見えるか」という意識が強く働いているように感じる。

相手にどう評価されるか。

組織としてどう見られるか。

その視点は、

どこか市場の中で振る舞う企業のようでもある。

そしてもし、

こうした感覚が社会全体に広がっているのだとすれば、

事態はもう少し深刻である。

私たちは、

「お客様として扱われること」に慣れすぎてしまっているのではないか。

丁寧に扱われること。

配慮されること。

優先されること。

それが当たり前になると、

人は無意識のうちに、

自分を「サービスを受ける側」として捉えるようになる。

そうなると、

目の前の人を見るのではなく、

その背後にある価値や評価を見てしまう。

教育の場も、例外ではない。

点数。

偏差値。

合格実績。

測れるものが重視される。

なぜなら、それは分かりやすいからだ。

比較できるからだ。

しかしその一方で、

測れないものは切り捨てられていく。

考え続けた時間。

試行錯誤した経験。

腑に落ちるまで向き合った過程。

そして、情緒。

これらは、数字にはならない。

だから評価されにくい。

結果として、教育は

「どれだけ点を取れるか」という

市場的な価値観に引き寄せられていく。

本来、教育とは何だったのだろうか。

人を測るためのものだったのか。

それとも、人が自分を知るためのものだったのか。

分からないことに向き合い、

時間をかけて考え、

少しずつ理解していく。

その中で、

自分が何を大切にしているのかを知る。

そういう営みだったのではないだろうか。

けれど市場規範の中では、

その過程は軽視される。

結果だけが求められる。

どれだけ早く。

どれだけ簡単に。

どれだけ正確に。

それが評価の基準になる。

私は、その流れに強い違和感を覚える。

教育の中で本当に大切なのは、

測れるものではなく、

測りにくいもののはずだからだ。

考え続けること。

違和感を持つこと。

腑に落ちるまで向き合うこと。

そうした力は、

すぐに役に立つものではないかもしれない。

けれど、長い目で見たときに、

人を支えるものになるのではないだろうか。

岡潔は、

日本の教育に対して強い危機感を抱いていたと言われている。

その危機が、

今まさに現実のものとして現れているように感じる。

だからこそ、

目の前の人を、

そのまま人として見ること。

そこから始め直す必要があるのではないかと思う。

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