“役に立たない勉強”は、本当に無駄だったのか

学校で教わったことは、社会に出ると役に立たない。

そんな言葉を耳にすることがある。

確かに、日々の生活の中で、教科書の内容をそのまま使う場面は多くない。

方程式を解く機会もなければ、歴史の年号を思い出す必要もほとんどない。

そう考えると、「役に立たない」と感じてしまうのも無理はないように思う。

ただ、その言葉にはどこか違和感がある。

学校で繰り返し言われてきたことは、決して特殊なものではなかったはずだ。

日々の学習に取り組むこと。

身体を動かし、体力をつけること。

周りの人と関わりながら生活すること。

芸術に触れ、感じる力を育てること。

どれも当たり前のようで、誰もが一度は耳にしたことのあるものばかりである。

そして、それらを否定する人はあまりいないだろう。

にもかかわらず、それらが「役に立たない」と言われてしまうのはなぜなのだろうか。

一つには、それらの多くがすぐに目に見える形で役に立たないからだと思う。

点数や資格のように分かりやすく評価されるものではないし、収入に直結するわけでもない。

だからこそ、その価値を実感しにくい。

もう一つは、それをどう使うかという視点が抜け落ちていることにあるように思う。

例えば、勉強する習慣。

これは知識そのものというよりも、「分からないものに向き合い続ける力」として働くはずである。

体力も同じで、単に運動ができるということではなく、疲れた状態でも日々を回していくための土台になる。

人との関わり方や感性も、目に見えない形で日常の判断や満足の質に影響している。

こうして考えてみると、学校で教わってきたことは、どれも生活の中に溶け込んでいるようにも思える。

ただ、それを「資産」として意識する機会はあまりなかった。

お金の話になると、資産という言葉はよく使われる。

貯蓄や投資、収入を生み出すものとしての資産である。

しかし、自分の中にすでにある力や習慣を資産として捉えることは、あまり多くないのではないだろうか。

さらに言えば、世の中には既に整えられている環境も多い。

安全に通れる道路、誰でも使える施設、一定の秩序の中で成り立っている社会。

そういったものに支えられて生活しているが、それを意識することは少ない。

正直なところ、私自身もそれらを特別ありがたいものとして捉えてきたわけではない。

ただ、振り返ってみると、それらがあることを前提に生活している自分がいる。

そして、そうした環境の中で、どのように振る舞うか、どう使うかという力は、

思い返せば学校生活の中で少しずつ身につけてきたもののようにも感じる。

決められた時間の中で行動すること。

周りに配慮しながら場を共有すること。

与えられた条件の中で工夫すること。

そうした経験の積み重ねが、今の生活の中で無意識に使われている。

学校で教わったことは、決してその場限りのものではなかったのかもしれない。

ただ、それをどのように使うかまでは、あまり意識されてこなかっただけなのではないだろうか。

もしそうだとすれば、

「役に立たない」と感じているものの中にも、

まだ使いきれていない何かが残っているのかもしれない。

それに気づくことができたとき、

これまでとは少し違った形で、身の回りのものが見えてくるように思う。

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