なぜ人は“公共活用力”を失ってしまうのか

気がつけば、昔はできていたことが、いつの間にかできなくなっている。そんな感覚を覚えることがある。

例えば、限られた環境の中で工夫して過ごすこと。少しの不便を受け入れながら、その中で満足を見つけること。こうした力は、学生時代には当たり前のように使っていたはずだ。

学校という場所は、強い制約の中にある。時間は決められ、場所も限られ、使えるものも多くはない。その中で、人は自然と工夫を覚える。友達と共有し、順番を守り、与えられた環境の中でどう過ごすかを考える。

このような経験の中で育っていくのが、「公共活用力」なのではないかと思う。すでに用意されている環境や仕組みを使いながら、少ないコストで満足を得る力である。

放課後、教室で水道水を飲みながら、たわいもない会話をしていた時間は、確かに楽しかったはずだ。特別な何かがあったわけではない。それでも、あの時間には確かな充足があった。

それなのに今は、コーヒーを片手にしていないと、どこか物足りなさを感じてしまうことがある。

変わったのは、環境なのだろうか。それとも自分なのだろうか。

もしかすると、満足するために必要な“条件”が増えてしまっただけなのかもしれない。

社会に出て収入を得るようになると、多くの制約が取り払われる。待つことを避けることができ、移動は快適になり、空間もお金で確保できるようになる。それ自体は悪いことではないし、多くの人がそこを目指して努力してきたはずだ。

ただ、その過程で「工夫する」という行為が少しずつ不要になっていく。

工夫しなくても、ある程度の満足が得られてしまうからである。

さらに、お金を払えば丁寧に扱われる経験が増えることで、「不便は避けるもの」という感覚が強くなる。公共の場に対しても同じような快適さを求め、少しでも不自由を感じると選択肢から外してしまう。

こうして、公共を使う機会そのものが減っていく。

そしてもう一つ見逃せないのは、人との関わり方そのものが変化していくことである。

本来、学校や地域の中で築かれていた関係は、助け合いや気遣いといった、いわば“社会規範”の上に成り立っていた。そこでは、多少の不便や曖昧さがあっても、お互いに補い合うことで成り立っていたはずである。

しかし、お金によって多くのことが解決できるようになると、人との関係は徐々に“市場規範”に寄っていく。つまり、対価を支払うことでサービスを受けるという関係である。

市場規範そのものが悪いわけではない。むしろ現代社会においては不可欠な仕組みである。ただ、それに過度に依存してしまうと、本来であれば成立していたはずの関係性や工夫が、必要のないものとして切り捨てられていく。

気づかないうちに、「お金を払えば解決できること」が増え、「お金を払わないと満たされない状態」へと変わっていく。

これは、単に支出が増えるという問題ではない。

満足の源泉そのものが、外側に委ねられてしまうという問題である。

かつて満たされていたのは、水そのものでも、場所そのものでもなかった。人との関わりや時間の共有、その場に流れる空気のようなものだったはずだ。

しかしそれが、コーヒーや空間の質といった“条件”に置き換わっていく。

公共活用力が高い状態とは、少ない条件で満足できる状態だと言える。逆に言えば、多くの条件が揃わないと満足できない状態は、その力が使われていない状態とも言える。

ここで考えたいのは、どちらが豊かかということである。

より多くのものを手に入れることで満たされるのか。それとも、少ない条件の中で満足を見つけられることが豊かさなのか。

公共活用力とは、単なる節約の技術ではない。不便を我慢することでもない。与えられている環境の中で、自分なりに満足を見つけ出す力である。

そしてその力は、失われたのではなく、使われなくなっているだけなのではないかと思う。

お金によって多くの選択肢が手に入るようになった今だからこそ、あえて制約の中に身を置いてみる。その中で、人との関係や満足のあり方を見つめ直すこと。

それは、便利さを手放すことではなく、本来持っていた豊かさを取り戻すことなのかもしれない。

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