母方の祖父は、サラリーマンだった。
決して派手な生活をしていたわけではないが、
亡くなった時には、家と資産をしっかり残していた。
祖父の話で印象に残っているのは、
「価値は変わる」ということだった。
住む場所を変え、
価値が上がる土地へ移る。
新聞を読み、流れを見て判断する。
ある時は金塊を買ったという話も聞いたことがある。
子どもの頃の自分には難しい話だったが、
一つの感覚だけは残っている。
「物の値段は変わるらしい」
100円はいつでも100円なのに、
物の値段は上がったり下がったりする。
その不思議さが、ずっと頭のどこかに残っていた。
また、為替の話も印象に残っている。
ニュースで為替の話を聞き、
母に「お金の価値は変わるのか」と聞いたことがある。
見せてもらった外国のお金を見て、
ますます混乱したのを覚えている。
後になって分かる。
お金そのものが変わるのではなく、
価値との関係が変わっているのだ。
この感覚は、今考えるととても重要だと思う。
お金は固定されたものではない。
そして、価値もまた固定されていない。
だからこそ、
お金を増やすというよりも、
価値の変化の中でどう位置を取るかが問われる。
何を持ち、何を手放すのか。
どのタイミングで動くのか。
そうした選択の積み重ねが、
結果として資産の形を作っていく。
ここまで考えて、ようやく現代の話に繋がる。
最近は「投資をしなければいけない」という空気を感じることが増えた。
物価が上がり、預金だけでは資産が目減りすると言われる。
確かにそれは事実なのだと思う。
同じ100円でも、買えるものが変わってしまうのであれば、
実質的には価値が下がっていると言える。
何もしていないつもりでも、
気づかないうちにお金は減っている。
そう考えると、「お金を増やす」というよりも、
「価値の変化に対抗する」という意味で投資が語られているのだと分かる。
株式や不動産、金塊などに資産を分けるのも、
それぞれ価値の動きが違うからだ。
一つのものに偏ると、
価値が下がった時にその影響を大きく受けてしまう。
だから分散する。
これは難しい理論というよりも、
「何がどう変わるか分からない」という前提に立った、
とても素直な考え方なのだと思う。
ただここで、もう一歩踏み込んで考えてみたい。
そもそも、私たちはどれだけお金があれば満足するのだろうか。
1億なのか、2億なのか、それとも10億なのか。
おそらく、そのどれを手にしても「何か違う」と感じるのではないかと思う。
人は、お金があればあるほど欲しくなる。
だからこそ重要なのは、
いくら持つかではなく、どう満足するかを考えることなのだと思う。
どの時期に、どれくらいのお金が必要なのか。
今はどこまで支出を抑えられるのか。
その分を未来に回す意味はあるのか。
そうしたことを具体的に考えていく中で、
投資という行為の意味が見えてくる。
それは単なる増やすための技術ではなく、
時間をまたいで満足を配分する行為だとも言える。
自分の持っている能力や信用といった、
目に見えない資産も含めて、どう組み合わせていくのか。
いわゆるポートフォリオという言葉で語られるものも、
突き詰めればこの感覚に近いのではないかと思う。
そして、その前提として理解しておかなければならないことがある。
お金は、使えばなくなる。
これは単純だが、とても重要な事実だ。
宝くじに当たった人が、
お金の使い方が分からずに破綻してしまう話もよく聞く。
それはお金の量の問題ではなく、
使い方の問題なのだと思う。
お金は、持っているだけでは意味がない。
使って初めて価値になる。
だからこそ、毎月の収入の中で、
無理のない範囲で満足できる支出を繰り返していくことが重要になる。
それは決して派手なものではない。
少しの余裕を残しながら、
自分にとって納得のいく使い方を積み重ねていく。
その延長線上にしか、
持続的な満足は生まれないのだと思う。
良い立地の広い家や、高級車といったものも、
一時的な満足は与えてくれるかもしれない。
しかしそれが長く続くかと言えば、
疑問が残る。
満足には、短期・中期・長期といった時間の広がりがある。
投資とは、その時間の中で、
どの満足をどこに配置するかを考える行為でもあるのだろう。
祖父の生き方を思い返すと、
ただお金を増やしていたわけではないことに気づく。
価値の変化を見ながら、
無理のない生活を続けていた。
その結果として、資産が残っていた。
お金はただの数字ではない。
その背後にある「価値」と、
それをどう使うかという「意思」があって初めて意味を持つ。
価値が変わる世界の中で、
何を大切にし、どこにお金を置くのか。
その問いに向き合うことが、
今の時代における資産形成なのかもしれない。

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