子どもの頃、私はお金に困っていたわけではない。
ただ、欲しいものを何でも手に入れられる環境でもなかった。
周りの友達が当たり前のように持っているものが、
自分にはない。
そんな場面は、何度もあった。
小学生の頃、ベイブレードが流行っていた。
皆が新しいパーツを揃えて対戦している中で、
私は自分のコマを使って一緒に遊ばせてもらっていた。
ポケモンも同じだった。
新しいソフトが出れば、皆それを買ってもらって遊んでいる。
私は少し前の、安くなったソフトをやっていた。
通信もできないし、交換もできない。
同じゲームをしているようで、少しだけ違う場所にいる感覚があった。
それでも、その場にいることはできる。
完全に同じでなくてもいい。
少し形を変えれば、関わることはできる。
漫画もそうだった。
新刊を買うのではなく、
遠くの店まで自転車で行って、中古で探す。
買わずに立ち読みして、内容を覚えることもあった。
児童館に行けば、時間をかけて読むことができる。
そうやって、「お金を使わずに満たす方法」を
自然と探すようになっていた。
当時はそれが特別なことだとは思っていなかった。
ただ、周りと同じように遊びたい。
そのためにどうすればいいかを考えていただけだった。
今振り返ると、この時にいくつかの感覚が身についていたのだと思う。
一つは、「物の値段は変わる」ということ。
新しいものは高い。
少し時間が経てば安くなる。
中古になれば、さらに手に取りやすくなる。
同じものでも、タイミングによって価値は変わる。
これは後になって考えれば当たり前のことだが、
子どもの頃の自分にとっては、
少し不思議で、そしてありがたい仕組みだった。
もう一つは、「すべてを自分で持つ必要はない」ということ。
人から借りることもできる。
共有することもできる。
別の方法で代替することもできる。
「買う」以外の選択肢があることを、
身体で覚えていった。
そしてもう一つ、今でも大事にしている感覚がある。
それは、「自分は本当は何を求めているのか」という問いだ。
ベイブレードが欲しかったのは事実だ。
新しいポケモンもやりたかった。
けれど、その奥にあったのは、
友達と同じ時間を共有したいという気持ちだったのではないかと思う。
もしそうだとすれば、
必ずしも「同じもの」を持つ必要はない。
少し形が違っても、
同じ空間にいられれば、それで満たされることもある。
お金があるかないかで、選択肢の数は変わる。
それは間違いない。
けれど、お金がないからといって、
すべてが失われるわけではない。
むしろ、その中で考えることで、
見えてくるものもある。
何が本当に必要なのか。
何があれば満足できるのか。
そして、何はなくてもいいのか。
お金がなかったからこそ、
私はそういうことを考える癖を覚えたのだと思う。
その癖は今でも残っている。
何かを欲しいと思った時、
すぐに手に入れるのではなく、一度立ち止まる。
それは本当に必要なのか。
別の形で満たすことはできないのか。
少しだけ考える。
その時間があるだけで、
お金との関わり方は大きく変わるように思う。
お金を持つことも大切だが、
それと同じくらい、
どう向き合うかも大切なのではないだろうか。

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