社会人になって4年目の頃だった。
コロナ禍で、家にいる時間が増えた。
外に出る理由が減り、静かな時間が増えた分、
自分の中にある不安がはっきりと見えるようになった。
何かを勉強しなければいけない。
そんな焦りのような感覚に押されて、
私はお金の勉強を始めた。
もともと、「お金で苦労する人生は送りたくない」という思いはあった。
けれどその時に強く感じていたのは、少し違う。
仕事が、お金によって歪められてしまうことへの恐怖だった。
お金がないことで、
本来選びたくない選択をしなければならなくなる。
やりたくないことを続けなければならなくなる。
そういう状態にはなりたくないと、強く思った。
その感覚の背景には、ある実体験がある。
正規で働く前、臨時採用として働いていた時期があった。
その頃、ある月の労働時間は330時間を超えていた。
夜、帰り道を歩きながら、
「これは長く続けられないな」と、ぼんやり思ったのを覚えている。
身体は重く、頭も回らない。
それでも働き続けなければいけない。
あの時感じたのは、疲労というよりも、
「逃げ場がない」という感覚だった。
だからこそ思った。
せめて、自分の身を守るための資産が必要だと。
そう考えるようになってから、
お金の見え方が少しずつ変わっていった。
ただ、その考えの土台になっているのは、
もっと前の経験だと思っている。
大学時代、私はほとんどお金を持っていなかった。
1日に使えるお金は、100円ほど。
母親が持たせてくれた白米に、
学食で買ったコロッケを一つのせる。
ソースとマヨネーズをできるだけかけて、
味を濃くして食べる。
それが日常だった。
柔道部に所属していたので、
朝は6時過ぎに家を出て、ラントレ。
午後は稽古とウエイト。
夜に洗濯をして、大学を出るのは8時半頃。
身体はいつも空っぽに近い状態だった。
帰り道、コンビニの前で立ち止まることが何度もあった。
何か食べたい。
何か入れれば、もう少し動ける気がする。
でも、値段を見ると買えない。
そのまま店を出る。
あの時の感覚は、今でもはっきり覚えている。
お金がないというのは、
単に不便ということではない。
選択肢が、目の前から静かに消えていく感覚だった。
そんな生活の中で、あることに気づいた。
まとまったお金があるかどうかで、
日々の選択が大きく変わるということだ。
例えば、駐輪場。
その日その日の料金を払うことしかできないと、
毎回少しずつお金が減っていく。
しかし、まとまったお金があれば、
定期利用に切り替えられる。
結果として、日々の出費は減る。
また、出稽古の手土産。
3000円の贈答品は、当時の私にとっては大きすぎる出費だった。
ほぼ1ヶ月分の昼食代に相当する。
きれいな箱に入ったお菓子は、
相手への敬意を表すことができる。
その横には、割れ煎餅が売っている。
味は変わらない。
自分で食べるなら、これで十分だと思う。
けれど、そこにも手が届かない。
お金がないというのは、
「どちらを選ぶか」ではなく、
「そもそも選べない」ということだった。
柔道部では主務も務めていたので、
遠征費や大会費の集金をすることも多かった。
しかし、期日通りに全員分が揃うことは少ない。
その度に、何人か分を立て替える。
お金がない時期のその立て替えは、
正直に言って、かなり苦しかった。
集金が遅れる部員に対して、
苛立ちを感じることもあった。
けれど、後に少し余裕ができてから気づいた。
まとまったお金があれば、
一時的な立て替えは大きな問題ではなくなる。
むしろ、落ち着いて対応できる。
この違いは大きかった。
これらの経験を通して、
私は一つのことを身体で理解した。
まとまったお金は、
さらにお金を生み出すきっかけになるだけでなく、
精神的な余裕を生み出す。
そしてその余裕は、
自分のためだけに使うものではない。
むしろ、最初は人のために使った方がいいのではないかと思う。
少し立て替える。
少し余裕を持って待つ。
少し良いものを選ぶ。
そうした行動が、
人との関係を滑らかにし、
結果として自分の周りに人が残っていく。
お金は単なる道具だと言われる。
それは確かにその通りだと思う。
ただ、その道具があるかどうかで、
人との関わり方や、
自分の心の状態が大きく変わるのも事実だ。
だからこそ私は、
お金について考えることは、
どう生きるかを考えることと、
ほとんど同じなのではないかと思っている。

コメント