「責任」という言葉に感じる違和感

最近、「責任」という言葉に強い違和感を覚えることが増えた。

本来、責任とは何なのだろうか。

私は、責任とは

目の前の相手に向き合い続ける覚悟のことだと思っている。

しかし現実には、

この「責任」という言葉が、

その逆の意味で使われている場面を多く目にする。

例えば、指導に従わない子どもがいたとする。

本来であれば、その子どもが納得し、

自ら行動できるようになるまで関わり続けることが、

大人の役割のはずである。

もちろん、それは簡単なことではない。

時間もかかるし、労力もかかる。

ときには正面からぶつかることも必要になる。

だからこそ、そこに責任が生まれる。

しかし現実には、

「強く関わると問題になる」

「無理をさせるとハラスメントになる」

といった理由で、関わること自体を避ける場面がある。

そして最後には、

「将来困るのは本人だから」

という形で、その子どもに“責任”が返される。

これは、本当に責任を果たしていると言えるのだろうか。

教育の場では、

「自分で決めたのだから責任を持ちなさい」

という言葉もよく使われる。

一見すると正しい。

しかしここにも、どこか歪さがある。

子どもはまだ、

責任を引き受けるだけの力を十分には持っていない。

判断の軸も、経験も未熟である。

そうした存在に対して、

「決めたのは自分なのだから責任を取れ」と言うことは、

大人が本来担うべき部分を、

そのまま手放しているだけではないか。

保護者の中にも、

「この子の将来に責任は持てないので、本人の意思を尊重します」

という言葉を使う人がいる。

だが、それは本当に尊重なのだろうか。

責任を取らないことの言い換えとして、

「責任」という言葉が使われているように感じることがある。

学校は家庭に、

家庭は本人に。

責任が押し付け合われ、

最終的には最も弱い立場である子どもに集まっていく。

その結果、子どもは

自由と責任を履き違える。

やりたいことを通すことが自由であり、

その結果は自分で背負えばいい。

そう理解してしまう。

しかし実際には、

その「背負う力」そのものが育っていない。

ここに、大きな歪みがある。

さらに問題を複雑にしているのは、

子どもの発する“屁理屈”に対して、

社会が真正面から応答してしまうことだと思う。

例えば、反抗期の子どもが

「こんな勉強は社会に出ても役に立たない」

と言って勉強を嫌がる場面がある。

この言葉だけを取り上げれば、

確かに一理あるようにも聞こえる。

しかし実際には、その多くは

学ぶことそのものへの抵抗や、

うまくできないことへの逃避である。

本質的な問題は、そこにはない。

にもかかわらず、

社会がこの言葉に正面から向き合い、

「では役に立つ教育とは何か」と議論を始めてしまう。

それによって、議論の焦点がずれていく。

本来向き合うべきは、

目の前の子どもの状態であるはずなのに、

言葉だけが独り歩きしてしまう。

では、理不尽に怒り続ければいいのか。

納得のいかない評価を与え続ければいいのか。

確かに、その方が

「社会に出てから役立つ忍耐力」はつくのかもしれない。

しかし、それが正しいはずがないことは明らかである。

問題はそこではない。

本当に問われているのは、

どう関わり続けるかということだ。

近年、教育は

子どもの自主性を重んじる方向に進んでいる。

それ自体は重要な流れだと思う。

また、体罰についても、

単純に是非だけで語れるものではない。

問題の本質は、

方法そのものではなく、

その後にどれだけ関わり続けられるか、

どれだけ責任を引き受けられるかにあるはずだ。

しかし現実には、

その「関わり続ける覚悟」の部分が抜け落ちたまま、

方法論だけが議論されているように感じる。

その結果、

関わらないことが安全であり、

責任を負わないことが合理的であるかのような空気が生まれる。

私は、教育における責任とは、

結果を引き受けることではなく、

過程に関わり続けることだと思っている。

目の前の子どもに向き合い、

ときにはぶつかりながらも、

関係を手放さないこと。

その積み重ねの中でしか、

人は育たないのではないだろうか。

しかし今の社会では、

測れるものや問題にならないことが優先され、

その過程が軽視されているように感じる。

だからこそ、

「責任」という言葉の意味を、

もう一度考え直す必要があるのではないだろうか。

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