数学と情緒について考える

数学は論理の学問だと言われることがあります。

確かにそれは間違っていないと思います。

定義があり、定理があり、

それらをもとに筋道を立てて結論へ向かう。

そこには確かに論理があります。

けれど、数学の問題を見たときに、

「何故こう考えたのか」

と自分の思考を突き詰めていくと、

ただの論理では説明しきれないものに出会うことがあります。

しかし、それを「直感」と呼ぶには、少し乱暴な気がする。

何となくそう思った、

というものではないからです。

まだ言葉にならない。

まだ理屈に分かれていない。

けれど確かにそこにある、

心の動き。

私は、それこそが

岡潔先生のいう「情緒」なのだと考えています。

岡潔先生の随筆の中で、

初めて「情緒」という言葉を読んだとき、

これは大事に扱わなければならないものだと思いました。

それと同時に、

どこか救われたような気持ちにもなりました。

私はこれまで、

何かにつけて論理的に考えようとしてきました。

感情に流されないように。

筋の通った人間であろうとして。

けれど、それで上手くいかなかったことも多くありました。

むしろ、自分の中にある

理屈では言い切れないものを否定してきた気もします。

人間的に優れていると言われることはありました。

けれど、実際のところ、

何か大きなことを成し遂げたわけではない。

要領よく物事をこなし、

深く考えることもなく、

快楽を手にしていく人たちがいる。

恋愛でも、仕事でも、人生でも。

それに引き換え私は、

そういったものに恵まれたとは言い難い。

そんな苦悩を抱えてきました。

けれど、こうして書いていて思うのです。

私が抱えてきた苦悩と、

数学の問題を見たときに

「何故こう考えたのか」

を突き詰めていった先にある感覚は、

どこか似ている。

どちらも、

定義にたどり着くのではない。

その定義が、

いかによく定義されているか。

そこにたどり着く。

数学において、

「よく定義されている」というのは、

矛盾がなく、

使いやすく、

普遍性があることかもしれません。

けれど私は、それだけではないと思っています。

そこには、

美しさがある。

自然さがある。

腑に落ちる感覚がある。

私は、その

「よく」の部分には、

情緒が根差していると思うのです。

だから、

人生の苦悩と数学の感覚が、

無関係だとは思えない。

今の時代は、

論理的に正しければよい、

という空気が強いように感じます。

数字で説明できること。

合理的であること。

効率が良いこと。

それらが重視される。

もちろん、論理は必要です。

けれど、

論理的には正しい。

でも、人道的には違う。

そういうことを、

大きな声で言いにくい時代にもなっている気がします。

だからこそ、

情緒というものを太らせることには、

一定の価値があるのではないかと思います。

まだまだ小さき我が情緒。

けれど、

この小さな情緒を育てていかなければならないと、

強く思うのです。

そして、

この小さな情緒の先にこそ、

現代を少し変える力があるのではないかと、

私は信じています。

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